ブライアン・デ・パルマについて
ブライアン・デ・パルマ(Brian De Palma, 1940年9月11日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州ニューアーク出身の映画監督。イタリア移民三世。本名はジェームズ・ジャチント・デパルマ(James Giacinto DePalma)[要出典]。ブライアン・デ・パーマやブライアン・ディ・パーマと表記する事もある。
俳優のチャールズ・ダーニング、デニス・フランツ、マイク・スター、グレッグ・ヘンリー、撮影監督のヴィルモス・スィグモンド、スティーブン・H・ブラム、プロダクション・デザイナーのジャック・フィスク、作曲家のバーナード・ハーマン、ピノ・ドナジオ、エンニオ・モリコーネとよく組む。
短編『Wotans Wake』がローゼンタール基金賞を受賞したことに自信をつけ、1963年に長編『御婚礼/ザ・ウェディング・パーティ』の撮影を開始(完成は1967年。公開は1969年)。1964年に修士課程を修了した後は、ニューヨークを拠点に短編やドキュメンタリーを製作。1966年、ニューヨーク近代美術館の展示会のオープニング用に作られたドキュメンタリー映画『The Responsive Eye』が興行的に成功。1968年、徴兵拒否の実体験を基にしたロバート・デ・ニーロ出演の群像劇『ロバート・デ・ニーロのブルーマンハッタン/BLUE MANHATAN2・黄昏のニューヨーク』でベルリン国際映画祭の銀熊賞を受賞。そして、続編(邦題は逆だが)の『ロバート・デ・ニーロのブルーマンハッタン/BLUE MANHATAN1・哀愁の摩天楼』を制作。テレンス・マリックはこの映画を見て映画監督を志したという。
1970年にはワーナー・ブラザーズに招かれ、ハリウッドに移住。南カリフォルニア大学に出入りするようになり、ポール・シュレイダー(『愛のメモリー』の脚本家)、ジョン・ミリアス、ジョージ・ルーカス(『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』のオープニングの一部をデ・パルマが手伝った)、フランシス・フォード・コッポラ、スティーヴン・スピルバーグらと出会う。マジシャンを目指す男性を描いた喜劇『Get to Know Your Rabbit』(公開は1972年)を監督するが、ウサギを切り刻むマジックを披露するという衝撃的なクライマックスに会社側が難色を示し、製作中にデ・パルマを解雇。
失意の中ニューヨークに戻り監督した、『悪魔のシスター』『ファントム・オブ・パラダイス』が、ニューシネマの母と名高い映画評論家ポーリン・ケイルの絶賛を受けカルトムービーに。再び、ハリウッドへ戻り監督した1976年の『キャリー』がヒットし、低予算ノースターのホラー映画としては異例のアカデミー賞の主演女優賞(シシー・スペイセク)と助演女優賞(パイパー・ローリー)にノミネート。一躍スター監督になる。『キャリー』の批評的興行的成功により大作を監督するチャンスを得て、ベストセラーSF小説『フューリー』を映画化。
1979年、女優のナンシー・アレン(1983年に離婚)と結婚。ハリウッドでの生活に疲れたデ・パルマは、母校サラ・ローレンス大の学生と共に自伝的コメディ『悪夢のファミリー』を撮る。この作品はお世辞にも成功とは言えなかったものの、初心に帰ったことをきっかけに代表作となった『殺しのドレス』、『ミッドナイトクロス』などサスペンス作品を撮る。しかし、自身のルーツであるイタリア系コミュニティを絡めフィルモグラフィにおいての最重要作品となるはずだった、社会派サスペンス『プリンス・オブ・シティ』が、映画会社の重役との口論が元で降板させられてしまう(最終的にシドニー・ルメット監督が映画化)など、90年代以降の低迷の予兆もこの頃から始まる。
そして1983年アル・パチーノと組んで『スカーフェイス』を完成させる。強烈なヴァイオレンスと自身の映像技術が炸裂したこの作品は公開時散々な評価で興行的に失敗に終わったが、ヒスパニックやアフリカ系などのマイノリティから徐々に人気が広がり、現在ではカルト的な人気と高評価を得ている。しかし、『スカーフェイス』の失敗の痛手は大きかったようで次回作の企画が次々と撮影直前でキャンセルされるという悲劇に見舞われる。追い詰められたデ・パルマは、エロティックスリラー『ボディ・ダブル』や、無個性で型通りなコメディ『Wise Guys』を監督するも、どちらも失敗作の烙印を押される。
だが、次の『アンタッチャブル』で一発逆転ホームランを打つことになる。この作品では、ケビン・コスナー、アンディ・ガルシアといった次世代のスターを送り出し、ショーン・コネリー、ロバート・デ・ニーロの豪華キャストに負けず劣らず、小手先なしの正攻法の演出で大ヒットに導く。この映画でコネリーはアカデミー助演男優賞を受賞。1989年、初期の覗き屋ジョンシリーズのシリアスな続編ともいえる、『カジュアリティーズ』を手がける。
1990年、トム・ウルフのベストセラー小説の映画化『虚栄のかがり火』が大コケし、再起不能寸前のところまで追い込まれる。1991年、ゲイル・アン・ハードと再婚(離婚年不明)。1992年、ゲイル・アン・ハードのプロデュースで、低予算ホラー『レイジング・ケイン』を撮る。酷評されたものの、当時のサイコスリラーブームに便乗し興行的には成功した。1993年には、再びパチーノと組んで『スカーフェイス』の姉妹編ともいえる『カリートの道』を作る。劇場公開時の評価は乏しくなかったが、最近になって長回しや倒置、スローモーションを多用した映像とストーリーが再評価された。
1995年、ダーネル・グレゴリオ=デ・パルマと再々婚(1997年に離婚)。1996年、『ミッション:インポッシブル』が歴史的大ヒット。それなりの評価を得るも、賛辞はトム・クルーズのプロデューサーとしての能力の高さに集中。監督であるデ・パルマには否定的な意見が多く、その後のキャリアには何のプラスにも働かなかった。2000年、『ミッション・トゥ・マーズ』が酷評の嵐に見舞われ、ハリウッドから干される。近年は『ファム・ファタール』や『ブラック・ダリア』などヨーロッパ資本の中規模予算映画を中心に活動。